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2008年2月13日 (水)

道徳の副読本

 今日は研修の日。来週の研究授業のオリエンテーリング。文科省の道徳教育の指定を受けているので、ここ最近、勤務校で行われる研究授業はほとんど道徳。授業される先生の指導案はすばらしいものです。他の先生の指導案を見ると勉強になります。しかし、道徳の授業研究の際、いつも『資料』のことが話題にあがります。『資料』が弱いと。

 副読本に登場するお話は、ただ何となくボーっと読んでいると結構おもしろいです。良いお話ばかりだし。でも、それを授業でするとなると別の問題です。良い話すぎて心が葛藤しないからです。まあ、上手な方はうまく授業をするのでしょうが。そもそも授業の組み立て方に問題があるような気がします。こういう資料があるからこのように授業をしようではなく、こういう授業をしたいからこの資料を使おうという発想でないといけないんだと思います。子どもに考えさせたいことがある、そのためにこの資料がいるという順番です。でも、副読本という呪縛があるために、最初から資料ありきで事が進められてしまいます。授業の中身は後付になってしまいます。だから、考えさせたいことの的がブレてしまいます。

 考えさせたいことに対する資料がなければ、自分で作ってしまえばいいのにって思うのですが。そんなことするから、「年間指導計画にないものを!」って言われたりもするのですが。副読本って何であるのだろう。道徳の授業を強制的にさせるための道具なのだろうか。いつもいつも「資料が弱い。」って言われる副読本っていったい何なのだろうか。資料は弱いけど、その資料を使わざるを得ないから、その弱い資料で授業するって変な話です。まあ授業する側に問題があるのかもしれませんが。本当は、それは弱くない資料なのかもしれないけれど。でも、伝える側が弱いと判断した時点で、使うべきでない資料だと思いますがね。

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